「この世のおわり」、そんな不安を感じたら

予定では東京オリンピックが開催されるはずだった7月。新型コロナウイルスによって一変してしまった生活は落ち着きつつあるようにも見えますが、ワクチンや特効薬の普及といった根本的な解決には至っていません。季節的にはムーミンたちが大好きな海や夏の話題をピックアップしたいところですが、まだまだ開放的な気分にはなれませんよね。そこで今回は、ムーミンのお話のなかでも特に大人におすすめしたい短編「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」(『ムーミン谷の仲間たち』収録)をご紹介したいと思います。ずっとまえのこと。浜辺の大きすぎる一軒家に、ひとりのフィリフヨンカが引っ越してきました。気持ちよく晴れた、静かな夏の日。でも、海でラグを洗うフィリフヨンカの心はおだやかではありませんでした。「大きな災難が来るまえは、いつだって、こんなふうにおだやかなのよ」と、考えていたのです。
天気はあまりにすばらしすぎて、どうにもへんでした。なにかが起こるにちがいありません。フィリフヨンカは、知っているのです。水平線のむこうのどこかで、黒々としたおそろしいものが、待ちぶせしています--どんどん大きくなりながら、いよいよスピードを上げて、こちらへ近づいてくるのです……。
「それがいったいなんなのか、わかりゃしないんだけどね」
(新版『ムーミン谷の仲間たち』講談社刊/山室静訳/畑中麻紀翻訳編集より引用)

静かすぎて落ちつかない、幸せすぎて怖い、そんなふうに感じたことはありませんか? ホラー映画だって、幕開けはたいてい静かで楽しげに始まります。正体不明の、説明のつかない不安ほど、対処に困るものはないですよね。フィリフヨンカの家は天井が高すぎて暗く、大きくて重苦しい窓にはどんなレースのカーテンもしっくりきませんでした。それでもフィリフヨンカはなんとか気持ちいい場所をこしらえようとテーブルを整え、隣人のガフサをお茶に招きました。
なにかにおびえている気持ちをだれかに打ち明けて、よくわかるわ、こわがることなんかないわよ、と言ってほしかったのです。

「このおだやかさは、ふつうじゃないわね。なにかおそろしいことが、きっと起こるのよ。ねえ、ガフサさん。わたしたちはとても小さくて、取るにたりない生きものですわ。それから、こういうお菓子だとかラグだとか、いろんなものもね。それでいて、とても大切、ええすごく大切なんだけれど、いつも容赦なく、なにかにおびやかされているんですよ……」
「まあ!」
ガフサは、とまどいました。

ガフサにはフィリフヨンカの気持ちがわかりませんでした。ふたりの話は食い違い、言い合いのようになってしまって、お茶会は終了。ガフサは帰っていきました。
外では、風が強くなり、海は一面、灰色に。海のむこうから、嵐がぐんぐんおしよせてくる音が聞こえてきます。夜が深まるにつれて、じりじりと強まる嵐。家が揺れ、ガラガラとかわらが落ち、えんとつが吹きたおされました。フィリフヨンカがずっと恐れていた“この世のおわり”がついにほんとうにやってきたのです。心のなかで空想しておびえていたことが現実になったとき、フィリフヨンカはどうしたでしょうか。また、フィリフヨンカの言葉を信じず、その気持ちが理解できなかったガフサは……。
嵐はフィリフヨンカからたくさんのものを奪い、嵐の前と後とでは暮らしも心持ちも大きく変わりました。そんなお話の結末はぜひ、ご自分で読んでみてください。でも、フィリフヨンカが抱えていた陶器の子ネコのこの表情を見れば、バッドエンドでもなさそうですよ?フィリフヨンカといえば、『ムーミン谷の夏まつり』『ムーミン谷の十一月』にも登場しますが、種族の名前なので、同一人物なのかどうかははっきりしません。コミックスに出てくるフィリフヨンカは子連れなので、明らかに別の人物。

新作アニメ『ムーミン谷のなかまたち』シーズン1第10話「ママ、メイドを雇う」シーズン2第5話「フィリフヨンカさん怪事件」のフィリフヨンカもコミックスの設定がベースになっています。

『ムーミン谷の仲間たち』の挿絵は一見、ラフに見えるかもしれません。例えば『ムーミン谷の夏まつり』に出てくるフィリフヨンカの絵と見比べてみると、かなりタッチが変化していることがわかります。 でも、これはけっして手抜きや時短などではなく、あえての演出。その証拠に、ひとつの場面を何パターンも試し描きしたスケッチが残されています。ちょうど7月4日からあべのハルカス美術館で開催される「ムーミン展  THE ART AND THE STORY」でも、そのスケッチの数々を見ることができますよ。実はこの「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」には、ムーミン族はひとりも登場しません。ムーミン一家が不在の『ムーミン谷の十一月』でさえ、人々はムーミンたちの噂話をしますし、スナフキンミムラねえさんといった人気キャラクターが出てきます。短編集のなかでムーミン族が描かれない「ぞっとする話」にはちびのミイが顔を出しますし、「静かなのが好きなヘムレンさん」ヘムル族はわりと知られたキャラクターだといえるでしょう。ところが、本作にはフィリフヨンカとガフサのほか、ヘムルの名前が出てくるぐらい。そのせいか、アニメなどの題材になることも少なく、広く知られているわけではありませんが、全ムーミン作品のなかでもっとも好きな一篇に挙げる愛読者もいるほどの隠れた傑作です。
この短編集が書かれた背景については『こんなときだから「ぞっとする話」』でも触れましたが、本作は特に、ムーミンシリーズ以降にトーベ・ヤンソンが書き続けた大人向けの小説に近いといえます。4月に発売された新版では冒頭の「あるとき」が「ずっとまえのことです」と原著に忠実に改められたことに始まり、言い回しや表記が整えられ、フィリフヨンカの心情がわかりやすく伝わりやすくなりました。

ところで、翻訳編集を担当した畑中麻紀さんによれば、このお話のスウェーデン語の原題「Filifjonkan som trodde på katastrofer」は“おびえる”ではなく“信じる”なのだそうです。英題は「The Fillyjonk Who Believed in Disasters」。辞書で調べてみると、troddeは「信じる、思想」、katastroferは「災害、大惨事、天変地異」。この世のおわりとも思える災厄を確信しておびえていたフィリフヨンカは、その禍が現実となったことで、解放されます。落ちつかない気分になったとき、眠れない夜、このお話を読めば、少し心が軽くなるような気がします。ウイルスをただ恐れて避けるのではなく、新しい生活様式を模索しなければならない今、恐怖心と向き合うヒントも得られるかもしれません。

萩原まみ