(198)大家さんと私【フィンランドムーミン便り】

クルーヴハルの小屋にある調理スペース

1995年の1月、4か月暮らしたフィンランドの小さな町からヘルシンキに越してきた私は、小さなワンルームのアパートを借りた。大家さんはスウェーデン語系のおばあさんで、トーベ・ヤンソンと同い年だった。一瞬トーベと交流があったかも?と思い、ムーミンがきっかけでフィンランドに来たと言ってみたものの、大家さんからの反応はなかった。家具類を何も持たない私に、大家さんは家具を置いていってくれただけでなく、掃除機や調理道具、食器類までも「どうぞ使って」と持ってきてくれた。電気や電話も大家さんが手続きしてくれたし、洗濯機はなかったけれど、バスタブがあった。フィンランドではバスタブのある家がほとんどない。ところが何年かしてトーベのアトリエにバスタブがあるのを目撃し、しかもそこで食器を洗っていたというではないか(私は洗濯をした)。バスタブはスウェーデン語系の人たちの何かなのかと想像しつつ、我が家にやってくる人たちは、みな私のアパートが60年代70年代で時が止まったような空間だと笑った。

私の家はオレンジ色と茶色が多く、窓には大柄の花が色鮮やかに描かれたカーテンがかかっていた。そして食器はクラシックだった。この色味と食器の組み合わせに出会ったのはトーベが過ごした夏の島の小屋に行ったときだ。色まで同じ鍋やポット、同じ柄のカップやソーサー、木のヘラまでそっくりだ。引き出しひとつひとつに丁寧につるっとした紙を敷いているところも同じだった。そういえば、大家さんが私にくれたものの中に絵画がひとつあった。荒れた海の絵で、金色の厳かな感じの額装が施されていた。

よく考えてみたら、ヘルシンキの人口の5パーセントほどのスウェーデン語系の方に、こんなかたちで出会えたことだってすごい。だからといって、彼女からトーベの話どころか、ムーミンにまったく反応してもらえなかったので、何ということはないのだけれど。でも、こうして偶然与えられた私の住環境がトーベ・ヤンソンに近かったことは嬉しかった。さらにトーベの死後とはいえ、まだトーベがいた頃のままだったアトリエに伺った時のこと。玄関口にかけられていたコーデュロイの赤いコートは、私が当時着ていたコートと同じだったのだ。国立劇場が衣裳大放出の大きなフリマをしたときに、確か日本円にして100円くらいで買ったコートだ。

家の前にある公園のベンチには、これまた偶然だけれどムーミンからの引用が一言添えられたプレートが貼ってある。偶然はさらに重なり家の窓からは、トーベのパートナーだったトゥーリッキ・ピエティラがトーベと出会ったときに暮らしていたアパートが見える。フィンランド暮らしも30年目を迎え、ふとそんなことをいろいろ思い出しながら新しい年を迎えた。

小屋の引き出しは一つひとつ丁寧に紙が敷かれている

森下圭子