(106)トーベの旅した日本

laakso

緑がより深いところへと歩いているうちに辿りついた渓谷。

 

日本にいるときにやれたらいいなあと思っていたことがある。トーベが旅した日本を自分の足で歩いてみるということだ。初来日は1971年、当時の旅を詳細に覚えている人は残念ながらいない。実をいうと初来日が何年だったかということすら、複数の説が上がったほどだ。いくつかのエピソードは強烈な思い出とともに語り継がれていたりするのだけれど、彼女の初来日の様子を時間軸に沿って追うには、まだまだ時間と根気と、あとは奇跡的な出会いと思い出話を待つ必要がある。

私の手がかりのひとつは『トーベ・ヤンソンの世界旅行』というドキュメンタリー映画だ。ここに初来日の旅の様子が出てくる。ただし撮影されたのは8mmなので音声もないし、編集で大胆なコラージュになっているため、どこかの町とどこかの町がひとつの町での出来事のように見える可能性もある。

私はその中で箱根を目指すことにした。二人が「わずかでも自分たちの時間があったことは良かったね」と当時、女王様のようにもてなされながら奴隷のように働かされたという印象の強かった日本での滞在の中で得た、自分たちだけの時間。箱根の映像を眺めながらそんなことを話しているのを見て、いちど箱根に行ってみたいなあと思ったのだ。

その後、講談社の方から残されている旅の写真を見せてもらえる機会があった。その中に、箱根の富士屋ホテルの便箋が数多く出てくる。ドキュメンタリーの中でも登場した便箋だ。さらに写真やドキュメンタリーで指している傘がそのロゴから富士屋ホテルということも分かった。幸い富士屋ホテルにはお一人様でも宿泊しやすいようなプランがあって、背中を押された気分になった。数日前には一泊2700円の宿に泊まったりしていた私がなんとも大胆な!ではあるけれど、生まれて初めての箱根だ、しかもまた一つ歳をとったばかりだ、やってやろうじゃないの!というわけで、富士屋ホテルに一泊することにした。これまでの資料で分かった富士屋ホテルと熱海を、ぶらぶら旅してみることにした。

トーベの足跡を辿る?それについては少し葛藤があった。調べてそこを歩きたいと思う気持ちもあったけれど、これまでヤンソン家の人たちに出会えたことも、トーベのお墓に出会ったのも、いろんなことが偶然だった。現在残された記録をもとにそこを歩くより、自分で歩きながら、その場所の空気を感じられたら、トーベたちが大切にした二人の時間で何を見つけたり見かけたのか想像できたら楽しい旅になりそうだ。

熱海。観光客で賑わう商店街、好奇心に任せて彼らの後を追うように商店街を歩いていく。人混みに少し疲れた頃、坂を下ったところに海があることを知り、海に向かう。するとトーベの記録として残っている写真の背景が次々と姿を現し始めた。もちろん、今も同じところにあるお店なんてほとんどない。なのに、写真に残っているお店が前と同じところ、あるいは数メートルのところに残っていたりするのだ。

雨足が強くなり、雨宿りがてら休憩したくなった。小さな路地に昔からやってますといった風情の純喫茶を見つけた。チキンライスやナポリタンがあって、そしてコーヒーはこだわってそうだった。カウンターには腰の曲がったおじいさんがいて、お運びをしているのはキビキビとした少々怖いくらいのおばさん。

コーヒーが美味しかった。コーヒーは濃くてしっかりした味で、コーヒーを飲みながら「トーベは濃いコーヒーが大好きで」という話を思い出した。島にいるときも深煎りのコーヒーをわざわざ手に入れていたほどだ。意図したわけではないけれど、私がお勘定しようと席を立った時、お運びのおばさんはトイレにいた。腰の曲がったマスターが、ゆっくりレジにまで出てきてくれる。

もう60年やっている純喫茶だった。このおじいさんがずーっと切り盛りしているという。私が少しトーベ・ヤンソンの話をしたら、トーベ・ヤンソンのことなんて何も知らないだろうけれど「来たかもしれないですね。きっと来ましたよ」と答えてくれた。私にはその言葉だけで十分だ。あの時と変わらない店構えで、今もトーベ好みの濃いコーヒーを入れているおじいさんがいる。それで十分じゃないか。

こんな調子で箱根に向かった。富士屋ホテルの便箋は、もう以前のものとは違っていた。雨の降るなか傘を借りてみたけれど、ロゴは同じでも傘の柄は違っていた。ただ、ここでお仕事をされたことのある女優の小林聡美さんが、富士屋ホテルには人なつこい鯉がいるよと教えてくれた。

ドキュメンタリーのなかに、トーベが池に手を入れて鯉を追う様子がある。ここかもしれない!ホテルの人に聞くと、人が近づけばやってくるのだという。人なつこく、縦にも横にも育ってしまったわがままボディーの鯉。池のそばには鯉の餌まで売っていた。案の定、鯉はとても人なつこく、私が手を伸ばすと一斉にやってくる。おいでー!という私の声が聞こえているのかいないのか、とにかく鯉が一斉にやってきて、そして尾をパシャパシャと振り、私は水しぶきの歓迎を浴びた。

奮発したホテルなんだと思うのに、ホテルで優雅に過ごすよりも、外の世界が気になる。ふらふらと坂を登ってみたり、次は緑の方へ、より深い緑の方へと歩いてみた。

どこぞの人様の土地で掘り当てたらしい温泉がちょろちょろと流れている草むら、屋根から元気よく雑草が生えている廃墟、そして気づけば私は川沿いを歩く渓谷のコースを歩いていた。さらには小さな神社にまでたどり着く。温泉、神社、そういえばトーベたちが回想する箱根の旅の中で出てきたキーワードだ。同じところかどうかは知らない。でも気持ちの良いところを素直に歩いて行って見つける温泉も神社も、やっぱりいい。

ドキュメンタリーを見ていると、鳥羽や京都、奈良を旅したことがうかがえる。またいつか、気が向いたら、どこかをぶらぶら旅してみたいなと思う。手がかりがほとんどないというのは、見方を変えれば、なかなかいいものなのかもしれない。

森下圭子

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人なつこい鯉たち。ドキュメンタリーの一場面に思いを馳せながら。