『ムーミンパパ海へいく』ー本当の自分を見つける物語

ムーミンの小説は、自然に捧げられたラブレターのようです。どんなに小さな生きものや植物も描写され、イラストが添えられ、自然の力が敬意をもって、そして壮大に表現されています。読者が望めば、こうした自然描写からより深い意味を解釈することもできるのです。

自然の力への敬意は、1965年に出版されたムーミンの最後から2番目の小説『ムーミンパパ海へいく』に、最もよく現れています。この小説では、ムーミン一家が、安全で慣れ親しんだムーミン谷から遠く離れた灯台の島に引っ越します。島は、海や嵐、自然の脅威にさらされています。自分自身を見失い、自分が不必要なものになってしまったと感じるようになったムーミンパパによって、この旅の幕は開かれます。この物語は、ムーミンパパが自分自身、つまり自分の本質を見つけようとする物語だと解釈することができるのです。

「海と空の神秘さと、そのはかりしれない広大さ」

この物語では、秋の海の巨大な力が強調されています。それによって、人は自分自身が小さくなったように感じます。そしてその結果、思考さえもがいつもの考え方から、より大きな考え方へと変化してしまうのかもしれません。「荒れた海が好きな人なら、こんな住み方こそ、もってこいです。くだける波の中にすわり、よせては返す山のような緑の高波をながめ、屋根に響く海の音に耳をかたむけるのです」

秋の海の力は、島の漁師を、さまざまな煩わしいことから守ると同時に、現実逃避の機会も与えてくれます。「なにごとにもわずらわされずにすむのは、すばらしいことでした。話しかけるひとも、問いかけるひとも、気のどくに思ってあげるひとも、ぜんぜんいないのです。海と空の神秘さと、そのはかりしれない広大さだけが、自分の上におおいかぶさり、またすぎていくので、失望することなんてありませんでした」

物語の初め、ムーミンパパは、あたかもよく知っているかのように、尊大な海を、そして自分自身をもコントロールしようとします。「いいか、海が従っているひみつの法則をつきとめないと、始まらんのだよ。海を好きになるには、ぜひともそうしなければならんのだ」

 

「こいつはとにかく、戦いがいのある敵だな」

また、ムーミンパパは自然の中で、もっとも目に見えてわかる変化や繰り返しに注目し、それを科学的な調査結果と比較したり、少しばかり傲慢な態度で海を語ったりさえしていました。しかし、自然はムーミンパパが思っていたほど予測可能ではなかったのです。パパはそんなやり方ではコントロールできないことに気づきはじめ、より本質的に自然を理解するようになっていくのでした。パパは、波の音の中で、「こいつはとにかく、戦いがいのある敵だな」と叫びます。

ムーミンパパは、自然の上に立つのではなく、自然とその本質に近づくことで、自分自身もより理解できるようになることに気づいていきます。このように、自然に近づき、それを受け入れることは、人間らしさや自己受容、そして他者に共感し、理解することへの後押しになるでしょう。

物語の終わりでは、ムーミンパパは、海、そして自分のことさえもニュートラルに表現し、その性質の中には、矛盾やネガティブな面、そして美点もあることを語っています。

「パパは水ぎわまでやってきて、くだける波を見つめて立っていました。そこにパパの海がありました。あとからあとから、ザアーッと音をたてて波が打ちよせ、むちゃくちゃにあわをたててあばれます。それでいて、またふしぎと静かでした」

『ムーミンパパ海へいく』

「しっぽのさきから耳のてっぺんまで、生きる力がみなぎってきました」

『ムーミンパパ海へいく』は、トーベ・ヤンソンが海や四季、自然に対する深い敬意を込めて描いた作品のひとつです。ムーミンの小説がどのように自然からインスピレーションを受けているか、自然描写がいかに強く読者自身の感情に訴えかけているかを解説することは有意義なことでしょう。

ムーミンパパは、海を理解し、コントロールしようとあらゆる手を尽くした結果、コントロールするよりも、受け入れるやり方の方が効果的だという結論に達します。秋の海やそれを取り巻く自然だけでなく、自分の心や性格、アイデンティティー関しても、それは同じでした。この物語は、自然との強い結びつきや、慌ただしい中でも少し立ち止まり、自分自身に耳を傾けることの大切さを思い出させてくれる本です。

「ムーミンパパの心配はすべてかき消され、しっぽの先から耳のてっぺんまで、生きる力がみなぎってきました」