(155)ヤンソン的なもの
6月。嵐でも来ない限り、私は必ずソーダーシャールに行く機会に恵まれてきた。オフィシャルムーミンツアー、雑誌の取材、友達のお祝いで行ったこともある。いずれにせよ、私はいつも日本からやってきた人たちと一緒に島へ行っていた。
ここは『ムーミンパパ海へいく』の舞台となったといわれる灯台の島。今年、6月に日本から誰かがやってくることはない。ふと思いたち、この島へ一人で行くことにしたのだけれど、船着場に向かう途中、寂しさばかりがこみ上げてきた。あの場所を誰ともわかちあわないということが、なんとも寂しかったのだ。
ところが船に乗って潮の匂いがほとんどしないバルト海の潮風を浴びているうち、乗客は私一人のその空間がなんとも心地よいことに気づいた。でも、そいういう時にそうはいかないものだ。案の定、途中からひとり乗船してきた。しかも酔っ払いときている。
その人に悪気がないのはわかっている。でも、いちいち「ねえ」と話しかけてから、どうでもいい同じことを繰り返し言うだけなのだ。こういう時は、一人になりたいのでと言っても理解を示してもらえないことが多い。悪気はないけれど、でも無神経なその人の態度に、私はどんどん腹が立ってきて、そしてその人の態度がどんどんエスカレートしてきつつあったときに、私はとうとう牙をむいてしまった。
遠くの空が光った。稲妻だ。雷がなり、程なくして大粒の雨が降りだした。これが人に牙をむいた報いってやつなのだろうか。少し嫌な気分になった時、私はこの大粒の雨のおかげで一人になれたことに気づいた。その人は、雨から逃げるために甲板から下へ降りて行ったのだ。この自然の中でたった一人で居られる。降る雨のことなどどうでもよかった。私はとにかく一人になれたことが嬉しくてたまらず、びしょ濡れになりながら、いつまでも雨に降られながら潮風を浴びた。
人にはどうしてもという時がある。そして、どうしてもの時は、それを手に入れるために、大胆な行動に出たり、自分勝手になることがあるかもしれない。でも、どうしてもの時はそれでいいんだ。そんな言葉が頭の中を巡り、そしてふと思った。チェーホフ的とかブレヒト的とかあるけれど、これってヤンソン的じゃないかしらと。
この船旅の二日前、私はトーベ・ヤンソンの小さな特別展を見に行っていた。そこでは、たまたま居合わせた人と話をするうち、その人がトーベの弟さんにダイビングを教えてもらっていたという話になって驚くと同時に、なんか導かれたような気分になったものだ。特別展では今まで見たことのない作品が展示されていたり、トーベやムーミンにまつわる手作りの小道具や作品が会場にさりげない演出を加えており、愛情たっぷりのその展示がとても気に入ったし、人との出会いにも恵まれた。トーベが見守ってくれてるのかしらなんて、すっかり気を良くして島へ行こうとしたら、これだ。いや、見守ってくれているから、こういう展開になるのか。
フィンランドには「夏至の魔法」という言葉があるけれど、トーベ・ヤンソンやムーミンにまつわるものは、日頃でも不思議な展開になることが多いのに、今回は感情の振り幅まで大きかったなと改めて思う。
夏至祭当日。滞在先の田舎の家の庭に、今年買ったばかりのトーベ・ヤンソンという品種のバラが、花をつけた。
森下圭子